金沢半日巡り

金沢に旅行に来ました.12:30に金沢に到着し,17:00まで市内を観光しました.

訪れた場所は以下の通りです.

短時間にこれだけ回れた要因と各箇所の感想をまとめます.

まちのり

短時間にこれだけ回れた要因は間違いなくシェアサイクル「まちのり」です.

https://www.machi-nori.jp/

限られた時間でたくさんの場所を回りたい,でもバスだと時間に縛られて旅行中常にプレッシャーがかかる状態になってしまう,というようなことを考えていたときに見つけました.

まちのりの料金体系は以下のようになっています.自分が利用したのは水色で囲った1回会員プランです.

基本的には1回の移動を30分以内におさめて165円を払う,ということを繰り返していました.

コースは以下の通りです.下の区間は自転車に乗った区間です.

料金は合計770円でした.第1区間で30分overしてしまったため110円余分に課金されています.ちなみにこれは石川県立図書館の駐輪ポートが雪で埋もれていて駐輪できないという積雪地帯ならではのイベントが発生したためです.なので,雪が積もってそうな箇所に駐輪しようとする場合は注意が必要です.

ポートの場所とポートで利用可能な自転車の数はアプリから確認できます.基本的に大体の観光スポット付近にポートがあるので利便性goodです.

街の景色を楽しみながら移動できますし,普段あまり運動されない方にとってはちょうど良い運動になると思うので(「まちのり」は電動アシスト自転車です),とてもおすすめです.

新幹線車窓風景

雪化粧を纏った立山連峰

自然の雄大さを感じました.

金沢駅

鼓門ともてなしドーム

石川県立図書館

ここにすぐに来れる近隣の方がとても羨ましいです.初めて訪れる図書館ではいつも真っ先に哲学コーナーに行くのですがちゃんと豊富でした.

円周をなす本棚はテーマごとに本が取り揃えられていておもしろいなと思いました.

鈴木大拙

洗練された空間でした.平日で人もほとんどいなかったのでほっと一息つけました.

石川県立美術館

こちらも平日でほとんど人がいなかったのでゆっくり作品鑑賞できました.

兼六園

松と池で構成される空間でした.シンプルなんですが,それが良いのだなと思いました.

人が全くいない小川で水が流れる音を聞いていたら落ち着きました.

21世紀美術館

全体的に"光"がテーマになっているなと感じました.上の写真のオブジェは,中に入ると色が変わっておもしろかったです.

絵画や彫刻といった人間の技巧によって生み出される芸術も人間の創造力の深淵さを感じられて好きなのですが,こうした自然と手をとり合って成立する芸術も自然と人為の調和を感じられて好きです.

ひがし茶屋街

趣のある街並みでした.

もりもり寿司

自分の舌が壊滅していることを前提に,美味しさ(+),待ち時間(-),金額(-)をトータルして<チェーン店という感じでした.でももちろんとても美味しかったです.

おわりに

金沢,非常に好きになりました.観光スポットが近距離にぎゅっと集まっていてシェアサイクルで素早く経済的に移動できたり,美術館や博物館がたくさんあるのが良かったです.

効率的な復習管理に向けて

nakant.hatenablog.com

上の記事で,復習をさぼりがちになっていると書きました.

実は,この課題はまだ解決できていませんでした.というのも,効率的に復習を管理するスタイルが確立していなかったためです.一時Ankiを使って,その日にやったことをカードに書き込むことをしていましたが,Ankiをわざわざ開かなければいけなかったり,復習タスクが終了するまでカードをDoneできなかったり,デザインがあまり好みではないなど,自分の怠惰さも相俟って結局全然続きませんでした.

ただ,復習は非常に大事だと考えています.メリットとして以下のことがあげられるかなと思っています.

  • 当然ながら知識を蓄えられる
  • 知識を長期記憶に移していき,また,記憶強度を高めることである知識のアウトプットにかかる負荷を下げられる
    • 結果として,脳のリソースを他の事柄に割くことができ知的活動のパフォーマンスがアップする

ですので,何としても復習せねばということで,何か良い感じのソリューションがないかなと思いあぐねていたのですが,昨日これはいけるんじゃないかという方法を思いつきました.

その方法はnotionを利用するもので,以下のようにタスク管理データベースを作成しました.

タスク記入ページはrecurtionで毎日0時に自動で作成されるようにしています.

recurtion.io

Formulaはnow()関数がtimeを落とせないようでややぎこちなくなっていますが,次のように設定しています.

dateBetween(dateSubtract(dateSubtract(now(), hour(now()), "hours"), minute(now()), "minutes"), dateSubtract(dateSubtract(prop("Day"), hour(prop("Day")), "hours"), minute(prop("Day")), "minutes"), "days")

このFormulaはその日とタスク作成日の差を出力します.あとはFilterでFormula項目の好きな日数をとってView追加し,Homeにデータベースを配置すれば,notionを開くとその日に何を復習すれば良いのかがすぐに分かるようになります.

notionは開いてない時が基本ないというのと,やったこと記録と復習管理が兼ねられるので,なかなか良い感じに使っていけるんじゃないかなという気がしてます.ガシガシ復習していきたいです.

分析的態度体得のために#2

nakant.hatenablog.com

nakant.hatenablog.com

上2つの記事に関連する気づきがあったので,更新しようと思います.

冒頭記事の悩みのおさらいと現状

今朝Gigazineというサイトで以下の記事を見ました.

gigazine.net

科学的方法論に馴染みがないのでその妥当性はよくわからないのですが,とりあえず頭の中に情報があふれていると具体的な物事を思い出すことが困難になるようです.

冒頭の記事では,以下の2点を悩みとしてあげました.

  • 具体的に語ることが苦手
  • 何らかの情報を理解しようとする際に漏れがある

これらに共通する原因として,

  • インプット過剰
  • アウトプット不足
  • 情報を整理できていない

を考えました.

Gigazineの記事の内容を踏まえると,こうした原因は確かに当たっていたのだなと納得しました.

さて,冒頭の記事から1月ほど経過しました.現状はどうかというと,さほど改善していません.というのも,典型的なSNS中毒になっていて,何も目的がないのに無意識的にYouTubeTwitterを開いてしまい,非体系的でジャンクな情報を過剰に摂取しているからです.さらに,SNSを見る時間それ自体もインプットした情報を整理する等の他の有益な時間を圧迫しているという二重の害が生じています.

改善策

改善策1

改善しなければならない点は明らかです.SNSに費やしている時間を,何もしない時間,読書,散歩,インプットした情報の整理の時間,etc.にリプレイスすれば良いのです.しかし,SNS"中毒"のため,すべきことやそれをすることによって状況が必ず好転することが明確に認識できていながらも抜け出すことは容易ではありません.

ここで,なぜSNSを無意識的に開いてしまうのか,開く際の心の動きを観察して考えてみようと思います.自分はSNSを開く際に,そこに何か情報があるのではないか,と期待する心の動きをみてとりました.まさに,巷でよくいわれているドーパミンの非合理的な放出そのものです.おそらく,はじめの段階でYouTubeTwitterを何らかのきっかけで開き,コンテンツを消費し,そこからは自然の摂理にしたがってドーパミンの非合理的放出機構が身体のうちに形成されてしまったのだろうと思います.

以上が原因だと考えた際,まずすべきことは次のことだろうと思います.

ドーパミン放出機構が正常になるまでSNSから離れる

身も蓋もなさすぎることですが,やはりこれしかないのかなと思います.なので,SNSから離れる作戦を考えなければならないのですが,自分の場合は作戦が意味をなさないことが簡単に予期できます.というのも,これまた年末ごろに掲げた睡眠習慣改善目標ですが,作戦をいくつか立てたにもかかわらず全滅したからです*1

nakant.hatenablog.com

こうなるともう気合いしかないかなと思います.SNSから離れ,冒頭であげた悩みを解決したいという気持ちをどれだけ強く持っているかが大事になります.

改善策2

冒頭の現状分析のところでは情報整理の時間もとれていないと述べました.これもやはり重要なポイントで,Gigazineの記事にもあったように頭の中で記憶が混雑していると具体的な思い出し作業が困難になってしまいます.

なので,次の点を意識していこうと思います.

知識を自身のうちでなるべく体系化し,アウトプットする

特定の情報を理解する段階で,自分の中で筋道立てて理解をする.そして,理解するだけでなくそれをアウトプットしたり,批判的に再検討を行ってみたりする.これらが習慣になればなかなか良い感じに情報を自分のものにでき,かつ自身でもアイデアを生み出していけるのではないかと思います.

言うは易しなので,これもちゃんとやろうと切に思います.

以上の試みの結果はまた1ヶ月後あたりに記事にします.

*1:SNS中毒問題にしろ睡眠問題にしろ,日常生活での悩みや満たされなさが悪く作用しているんだろうなとは思ってます.自分は何事も(非目的的に,つまり無駄に)考えすぎてしまう人間で,気を抜くと仕事以外の時間にも仕事で詰まってることなどを延々と考えてしまうんですが,それも良くないよなあと思いつつ.これについてはまた別の記事にしようと思います.

『ゴシップガール』を観終えて

3年前から細々と観てきたGossip Girl(『ゴシップガール』)をようやく観終えました.

アッパーイーストサイドのセレブな若者が繰り広げる波瀾万丈すぎる物語がとても好きでした.

一言で言えばとにかくハチャメチャに尽きるんですが,ハチャメチャだからこそたまに光る良心が真実味をもっていたと思います.この点は『カラマーゾフの兄弟』に通ずるところでした.人間の醜い欲求の部分まで正直に描かれていた(むしろ過剰なくらいに),というのがポイントだと思っていて,やはりフィクションではそこをオープンにしていかなければいくら善意が描かれてもどこか綺麗事めいてしまうだろうなと.

全6シーズンあってなかなかの長旅でしたが,3年間も観ていたので,登場人物たちが心の中で仲間のような存在となっていた気がします.

以下では簡単にゴシップガールの概要を紹介し,お気に入りの登場人物について簡単に感想を綴りたいと思います.

概要

冒頭で述べた通り,ニューヨークのアッパーイーストサイドを舞台にしたセレブな若者たちの豪華絢爛でハチャメチャな話です.主要人物は同じ高校に通う5,6人のメンバーとその周りの人々(家族,友人,知人,etc.)です.彼らが身内で付き合って,浮気して,別れてを複雑かつ高速でまわしつつ,常に誰かが誰かをターゲットに悪巧みをするという日常が展開されます.その波瀾万丈の中で時々家族,恋人,友人の愛情がきらりと光ります.

設定としては,「ゴシップガール」という運営者不明のゴシップサイトに日々ゴシップネタが投稿され,そのネタが様々なタイミングで投下され人間関係をかき混ぜていく形になっています(ゴシップガールが誰かの浮気を暴いて関係性を崩壊させる,というように).ラストではゴシップガールが誰だったのかも明かされます.

話の基本フォーマットは,各話の前半に複数の関係性においてパラレルに同タイプの問題が進行し(例えば,家族A/Bで同時的に親子喧嘩が勃発する.カップルA/Bで同時的に他方が浮気をする,etc.),後半でパーティーに全員が集結し,大爆発するか問題解決するか,というものです.

ブレアとチャック

1番好きだったのはブレアとチャックの関係性です.ブレアとチャックはゴシップガールの中でも根強い人気を誇るカップルです.

初期の彼らはまさに悪のキングと悪のクイーンでした.日々,自身の欲求を満たすため,他人を傷つけることを辞さない素行で,絶対まわりにいたら嫌だなと思ってみてました笑

ところが不思議なことに,話が進んでいくにつれ,彼らに対する気持ちはもっぱら好意的なものへと変わっていきます.高校を卒業した後も悪事の内容や程度としてはさほど高校生の頃と変わっていないのですが,そうした彼らの悪事がなぜか許せるようになります.これはおそらく自分だけではなく,ググってみると多くの人が経験している気持ちの変化っぽいです.

なぜこうした印象の変化が起きたのかを考えると,おそらくそれは,彼らが常に正直であり,彼らの心のうちに確かな良心が存在していたからだと思います.

実は,初期の段階ではブレアやチャックの悪さが目立っていたのですが,後半ではほとんど全ての登場人物が悪巧みを企てるようになります.実際にそのような世界が存在していたら間違いなく人間不信になるだろうというくらいに(ダークなところがなかった登場人物は,ドロータ,エレノア,サイラス,エヴァくらいでしょうか.あとはある意味ネイト?).ただ,ブレアとチャック(あとネイト)以外の悪巧みはかなり悪質なものが多かったです.悪質なものというのは,自分が何かを得るためというよりも誰かを貶めるために為される悪事のことです.さらにそこに巧妙に自己正当化を重ねていくというのが,ブレア,チャック以外にみられた特徴でした.

ブレア,チャックはどうかというと,悪事は基本自分が欲しいものを手に入れる類のものでしたし,悪事をなしている自分たちのことをそのような種の人間であると正直に認めていました.さらに,時にはそのような自身のあり様を反省することさえありました.また彼らは,家族,友人,恋人のためなら全力でサポートをするという一面ももっていました.

ストーリーを通じて彼らをみていく中で,次第に彼らの中に確固たる良心が存在しているのだなと思うようになりました.まさに『カラマーゾフの兄弟』でドミートリイのうちに良心を見出したときの感覚と酷似しています.

ラストでFBIに追われながら大急ぎで結婚式を行ったのも非常に彼ららしかったです.一見悪く見える人が,実はちゃんとした良心をもっていて,きれいな結婚式ではなく,ぶっとんでる結婚式を行う.ブレア/チャックとセリーナ/ダンとの対照的な関係がきれいに描かれたラストでした*1

ネイト

上では例外としたネイトです.ネイトは個人的に"おもしろかった"という印象です.

第1話では,ブレアとセリーナがネイトをめぐって喧嘩してたので,ネイトが正統派モテキャラなのかなと思っていました.ところが回を重ねるにつれネイトの良い意味でも悪い意味でもおバカな一面が明らかになっていきます.狡猾に悪事を進めていく周りの登場人物に比して,悪事を行うネイトはどこかマヌケなのです.わりと明らかな落ち度があって簡単に見破られたり,悪事をやってのけたつもりが実は誰かの手のひらの上で転がされているだけだったり.ネイトは終盤で「スペクテイター」という出版社を経営するようになるのですが,中盤からそこに至るまでは何をやっても基本ズッコケてばかりでいつもどこか悲壮感を漂わせていたように思えます.

そんなネイトですが,非常に情熱的で正直でまっすぐな人間でとても好感が持てました.ゴシップガールにネタ提供してなかったのもネイトだけでした.

ドロータ,エレノア,サイラス

ドロータはブレアの家のお手伝いさんです.いつもブレアのわがままに振り回されています.ドロータは幼い頃からブレアの面倒をみており,ブレアのことなら何でもお見通しです.時には厳しい注意を与えることもあります.自分はこのドロータがとても貴重な存在だと思っています.ブレアはその性格から他人といざこざを起こしやすく,また気持ちの浮き沈みもとても激しいです.そんなブレアをドロータはいつも抜群の包容力で受け止めてくれます.ドロータがいなかったらブレアはどこかのタイミングで精神が崩壊していただろうなと思います.

エレノアはブレアのお母さんです.有名なファッションデザイナーでいつも忙しそうにしていて,ブレアに会う時間もそこまで多くはありません.そんなエレノアをブレアはとても尊敬していて,エレノアもブレアの幸せを一番に考えています.リリー(セリーナの母)とセリーナ,バート(チャックの父)とチャック,ルーファス(ダンとジェニーの父)とダン/ジェニーの関係性が非常に不安定だったので余計にエレノアとブレアの関係性は優しさに満ち溢れていたなと感じました.

サイラスはエレノアの再婚相手です.見た目はいかにもエレノアと不釣り合いという感じですが*2,機知に富み,家族への確かな愛をもった人物です.再婚時ブレアはサイラスに大いに反発していましたが,どんなに反発されても嫌な顔一つせず,ブレアが受け入れてくれるのを待ち続ける姿には涙しました.その後のストーリーで何度もブレアの危機を救っています.

こうしてみるとブレアは本当に優しい人たちに囲まれていたのだなと思いました.

おわりに

自分の中で好きな作品の特徴の一つとして,登場人物が心の中で仲間になるというのがあります.ここ最近で言えば,記事にもした『ソクラテスの弁明』,『カラマーゾフの兄弟』がそうした作品です.登場人物に共通するのは,常識や他人からの思われにもとづくのではなく,内なる良心にもとづいて行動し,自分自身を反省することができるということです.登場人物はフィクションの世界の住人ですが,彼らが体現する精神は現実世界でも妥当性をもつものだと考えます.

これからもこうした作品とたくさん出会えたらなと思います.

ゴシップガールの舞台アッパーイーストサイド

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Upper_East_Side_NYC.jpg

ソクラテスの弁明』についての記事

nakant.hatenablog.com

カラマーゾフの兄弟』についての記事

nakant.hatenablog.com

*1:ただ一つ付け加えておきたいのは,善は善それ自体で評価されるべきだろうなということです.確か,「欲に基づくインセンティブが存在しない状況でしか明確に善であると言えない(根っからの善人だったらむしろ善いことを"したい"ということになるので)」みたいなことを言ったカントに対してシラーが「悪人(善いことを"したくない")しか善をなせないじゃん」と皮肉っていた気がするんですが,それと似てるなと思います.悪の中に光る善は目立ちやすいんですよね.

*2:ここでも付け加えると,自分は容姿を人間の価値には加味したくないなと思っています.大部分が生まれもって決定するなかで,その要素で判断がなされるのはなかなかに残酷ですからね.

ソクラテスとともに常識から自由になって強くなる

今回は,『ソクラテスの弁明』を読んでの感想です.テーマは「常識的な観念から一度離れてみて強さを得る」としてみます.

本書は有名なソクラテス裁判を題材としています.日頃から人々と対話し相手の無知*1を暴き憎しみを買っているソクラテスが,自然学者やソフィスト*2と同様の存在として告発され,それに対するソクラテスの弁明が描かれます.

本書の内容は,

  • 告発への弁明
  • 刑罰の提案
  • 判決後のコメント

の3部で構成されています.以下で簡単にまとめてみます.

内容

告発への弁明では,告発内容をソクラテスがサマリーし,告発者を尋問することで告発が不当であることを明らかにしていきます.ソクラテスの言い分は紛れもなく正しいものですが,この弁明の場でもいつも通りのソクラテス流の知の探求スタイルを発揮し,告発者や聴衆を怒らせ,結局有罪となります.

有罪となったので,次に刑罰の提案に移ります.ここでは告発者と非告発者の双方が刑罰の提案を行い,それぞれが勘案されたうえで最終的な刑罰が決定されます.告発側は当然死刑を求めます.それに対してソクラテスは,自らが何一つ悪いことをしておらず,むしろ善い行いを為していると主張し,プリュタネイオンの会堂(当時のVIPたちが食事をする場所)で食事に与る権利を提案します.当然現実的ではない(刑罰ですらない笑)ので,すかさずプラトンやクリトンがサポートに入り,最終的には30ムナの罰金を提案します.結局票決の結果死刑が確定します.

収監までに時間があったので,ソクラテスは演説を行います.ここでの内容は大きく2点あります.1点目は,ソクラテスが死刑になったとしても,ソクラテス流の知を愛し,求める精神は誰かが担って生き続けるし,この精神に反する告発者のような人たちは必ず仕返しを受けることになるという予言です.2点目は,死はそもそも善いことであることの論証です.死後は2パターン考えられ,全くの無感覚になるか,魂が別の場所に行くか.後者の場合には,これまでに死んでいった多くの偉人と対話をすることができるし,この現実世界のように自称裁判官みたいな人ではなくて真の裁判官がいるだろう,これは善いこと以外の何ものでもない,というのがソクラテスの考えです.

感想

常識から一度離れてみる

告発への弁明の中で,ソクラテスアテナイの聴衆に語りかける次の一節が多くの人にグサッとくる内容なんじゃないかなと思います.

世にも優れた人よ.あなたは,知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら,恥ずかしくないのですか.金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し,評判や名誉に配慮しながら,思慮や真理や,魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず,考慮もしないとは(29D-E)

金銭が多くなるように配慮することや評判や名誉に配慮するということは,自分も一昨年から社会人として働き始め,会社という枠の中で過ごす中で,ものすごく感じていることです.みんな決して表立っては言わないんだけれど,どう見てもそれらが行動原理であることは間違いない.当然ですが自分も例外ではありません.即物的な人間です.だからこそ,「恥ずかしくないのですか」の一言はずしりと響いてきます.

こうしたソクラテスの言葉は常識から離れてみるきっかけになると思います.日頃の自身の行動原理を虚心坦懐に振り返ってみて,良心,理性,善き魂のテストにかけてみる.確かに,金銭を蓄えたり,社会的地位を高めていく上では,ソクラテスの言葉は役に立つことはなく,むしろ障害にすらなりえます.しかし,そもそもなぜ金銭を蓄えたいのか,名誉を得たいのか,そこに至るまでの自分の生き様は恥ずべきものではないのかといった抽象度を上げた問いを自分に投げかけることで,人生に対するスタンスそのものを考えることにつながり,結果として,人生の満足度向上につながるかもしれません(そもそも損得で人生を考えることすらなくなるかもしれないし,損得の基準も変わるかもしれません).

強さを得る

ソクラテスの死刑に対する態度がとても良かったです.告発者は死刑というものが最大のダメージだと考えていますが,そもそも告発者とソクラテスとでは生きている生の次元が全く異なっているため,ソクラテスにとってはダメージは完全に無効化されています.ソクラテスにとって最も,そしておそらく唯一大事なのは「魂に配慮しているか」ということです.一般に私たちは生存,および生存にまつわる諸欲求にドライブされています.なので,通常告発者が考えるように死刑は最大のダメージとなります.しかし,ソクラテスにおいてはただ「善くあるか」ということが問題になります.死刑になろうがならまいが,それはソクラテスにとってどうでもよいこととなります.

実際に死刑のダメージが無効化されている2箇所をみてみようと思います.

皆さんはおそらく,私を死刑にしたり,あるいは,追放したり市民権を剥奪したりすることはできます.この男,あるいは他のだれかは,そういったことを大きな害悪だと考えるでしょうが,私はそうは思いません.むしろ,このメレトス[告発者]が今していること,つまり,人を不正にも死刑にしようとすることのほうが,より一層大きな害悪なのです(30D,[]内執筆者)

ここにおいて,ソクラテスを死刑にすることは,もっぱら告発者側に害があるとされています.ソクラテスが死刑になることは,告発者が不正な行いをしたことを明らかにするだけで,ソクラテスは自身に害があるとは考えていません.ソクラテスには自身が善い行いをしてきたという確信がある,なので,死刑にされようが自身の関心事である「魂への配慮」的には全く問題がないのです.

次に,判決後に死が善いことであることを説く場面で,内容については先に述べた通りです.

こうしたソクラテスの態度は,私たちの生活の中でも強さを与えてくれそうです.何かダメージの大きそうなことに接した場合には,自分の最も大事にする価値観的にダメージがあるのかを考えてみる.価値観から外れる事柄であれば無視できます.また,「死」みたいな普通恐いよねというような固定観念も一度問いに付してみる.そうすることで,恐いと思っていたものが実は恐くなかったと気付けることがあるかもしれません.

最後に

ソクラテスの生き様や考え方は,私たちの常識からすると驚くべきものだと思います.人によっては根本的な価値観の転換が起こるかもしれません.ぜひ"あらゆる人に"本書を手にとっていただきたいです.

*1:本書の解説ではこのタームに関しての重大な注意が示されています.無知は「不知(単に物事を知らない状態)でありながら,知った気になっている状態のことを指します.従来「無知の知」と言われてきたものは正確には「不知だと思っている」となるようです.「知る/思う」の区別も重要で,「知っている」とは根拠をもって真理を説明できる状態で,「思う」は自分が知っていない可能性を自覚することになり,ソクラテスの言わんとしていることを正確に表していることになります.

*2:本書解説によれば,当時知識人には漠然とした疑念があったようです.自然学者は自然を科学的に説明しようとし,自然と神を重ね合わせていた人々からは反発され,ソフィストはもっぱら弁論のテクニックで相手を言い負かせ,その技術を流布しており,人々からはいかがわしい存在と思われていたそうです.

『カラマーゾフの兄弟』を読んで--倫理と宗教について--

先日『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)を読み終えました.宗教的,倫理的に非常に濃密な内容でした.

今回の記事では,本書におけるそうした宗教的,倫理的な内容についての感想をまとめます.自分自身,道徳や善といったことに関して興味があったのでとても面白く読めました.

最初にシンプルに感想をまとめてしまうと,人間の良心を信じてみてもいいかなという気持ちになれた.アリョーシャやゾシマが考える世界観には完全コミットまでは踏み切れないもののすごく好きだな,という感じです.

本書を読む前に考えていたこと

人間は良くも悪くも多様.そしてそれは変えられる性質のものではない.なので,特定の規範を持ち出して悪を追放するみたいなことはかなり困難ではないか.仮に社会を特定の方向へ向かわせようとするなら多様性とそれに付随する悪は前提としたうえで,科学の力を用いながら制度,環境を整備して社会が自然とその方向へ向かうようにする,というのが良いのではないか.

本書を読んで

上の自分の考えは,イワンの大審問官の考えに近いなと思います.大審問官の言っていたことを自分なりに要約してみると次のようになるかなと考えました.


自由を与えられて,それを悪く使ってしまう人がいる.残念ながらそれはどうしようもないことで,だから大審問官があらゆる自由とそれに伴うあらゆる苦しみをすべて引き受ける.民衆は自由でなくとも欲求を好きなだけ満たすことができる.


まさに自分は,人間の欲求を活用して,制度や環境で社会を特定の方向に導くというようなことを考えていました.

しかし,この考えにゾシマはNoをつきつけます.ゾシマによれば,こうした欲求の充足に終始する生のあり方は,「富めるものにあっては孤独と精神的自殺,貧しいものには妬みと殺人」(中巻p.128)に行き着きます.ですから,ゾシマとしてはやはり,人間は等しく自由を享受するべきで,自由を温存した形で平和な調和的世界を目指そうと考えます.

実は,この等しき自由の調和的世界を考えるとき,イワンがアリョーシャに語った残酷な不合理が首をもたげます.イワンは何の罪もない子供たちが残酷な目に遭った例を引き,次のように言います.

もし子供たちの苦しみが,真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされるのだとしたら,俺はあらかじめ断っておくけど,どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ(上巻p.617)

上巻でこれを読んだとき,自分はイワンに大いに同意しました.イワンの言うとおり,子供たちを残虐な目に遭わせた人を赦さなければいけないというのはおかしいんじゃないかと思いました.なので,このイワンの言に対してそれは違うと言ったアリョーシャの気持ちが全く理解できませんでした.アリョーシャは次のように答えます.

その人[訳注: キリストのこと]ならすべてを赦すことができます,<中略>その人を土台にして建物は作られる

この看過し難いと思える赦しに対して,先の大審問官の説が出てきた形になります.自由を取り上げてしまった方が人類トータルで幸せなんじゃないかと.ただ,やはりゾシマ流に考えると自由がないのはダメだということになり,アリョーシャもこの前提に立っていると考えられます.

この前提だとどうなるか.自由が温存されるので,それに伴う悪も温存されてしまいます.しかし,平和的で調和的な世界のためにはどうにかして悪を処する必要があります.イワン的に赦さないという方向性で,つまり,武を持って処することを考えてみると,それは結局何らかの形で憎しみを生じさせるので,結果として永続的な争いになってしまいます.ではどうすれば良いか,ということで「赦す」というのがゾシマ,アリョーシャの考えで,赦しを基盤に調和的な世界が構築されるという世界観です.

前段で述べた,完全コミットまでは踏み切れないけど好きだというのはまさにこの部分です.ゾシマ-アリョーシャ的な世界観は自由を絶対条件に据えたうえで人間の良心を極限まで信じ抜くというものです.現実の社会を眺めれば,そんな調和的な世界を作ることはほとんど不可能に思えていまいます.ただ,それは"理想"として"信じる"に値する世界だなとも思いました.

アリョーシャは,ゾシマの死去後の急速な腐敗にかつてないほど傷つき,絶望の淵に立たされますが,それは,赦しを基盤にした調和的な世界を作っていこうという人材が自分だけになってしまったと感じたからなのだと思います.なので,その日夜空を眺め,大地に伏せって接吻し,再び起き上がったあと「一生変わらぬ堅固な闘士」(中巻p.247)となったのは自分一人でもやってやるという強固な決意の表れなのだろうなと考えました.ただ,その後の話の中でアリョーシャはたくさんの仲間たちを見つけたといって良いでしょう.なんだったらほとんど全ての人たち.少年たちにも,ドミートリイやイワンにも,リーザやカテリーナ,グルーシェニカにもアリョーシャの同志になりうる可能性が存在していると思います.みんなハチャメチャなところがありながら素敵な良心をもっていたので.

読了後,自分の当初の考えであった人間の良心を信じずに,悪を前提としてしまうのはある意味安易なのかなと思わされました.対して,良心を信じて赦しで調和的な世界を目指すのは非常に困難です.だからこそ,アリョーシャに言いようのない深み,強さを感じました.自分の世界観はおそらく今後もいろんな養分を吸って変化していきます.それでも,この『カラマーゾフの兄弟』が与えてくれた示唆はとても重要な意味をもつもので自分の世界観に色濃く残っていくはずです.

またこうした素晴らしい読書体験ができると良いなと思います.


P.S.

ドストエフスキー作品のキャラクターはどこかコミカルで,どこか愛おしくてみんな好きになってしまいます笑 みんな突然大演説し出しますし,感情表現豊かですし.あとはみんな芯の部分では純粋さをもってるんですよね.次は,大学時代に途中で終わってしまった『罪と罰』を読もうかなと思います.

アイデアスケッチ: 藝術の条件

Ideaカテゴリでは,自分が頭で考えたことや,今後本腰を入れて調べていきたいことを素描します.

イデア

今回は,『美学への招待』の3章を読んで考えたことです.

本章では,カタカナの美学として,様々なカタカナ語が従来のタームでは包摂しえない,ある種曖昧な領域の外延を指し示すものとして紹介されました.その中でもアート(art)は美学の中心概念で,20cに入ると統一的な概念としては成り立たなくなったことが紹介されます.

自分の興味を引いたのはネルソン・グッドマンという美学者の「いつartか」という言葉です.この言葉はartの内実が特定の条件で確定されるような固定的なものではなく,時代や状況,鑑賞者に応じて変化しうるということを言い表しているそうです.

このことを踏まえたとき,美術館の展示物はどうとらえられるのかというのが自分の疑問です.artがそのように非常に相対的な条件のもとで成り立つのだとすれば,展示物の展示物たるゆえんはどこへいってしまうのかと感じられました.ただ現実としては,美術館は藝術としての価値をもつものが展示されている,というのは人々の確かな共通感覚なのだろうなと思います.これらのギャップをどう説明できるのかというのを考えていたところ,以下の図式を思いつきました.

藝術作品とその周縁の図式アイデア

美術館の展示物は中央のコモンセンスとして確立した藝術作品の集合に入り,そうでない曖昧なラインの物は外側の集合に入るイメージです.DuchampのFountainは出品当時は外側の集合だったということになりそうです.この曖昧なラインの物は「それはartなのか」という問いを経て,また,art概念自体もそれが何を意味するのかが問われて,いわばそれらの問いが相互に影響し合いながら中央の集合に移っていくというアイデアです.

今後

現代美学はここらへんのことは当然議論しているはずなので,自分の図式の穴をたくさん見つけていきたいです.おそらく,グッドマンの著作や,現代美学の諸論考を読んでいくことになるだろうと思います.美学関連のことに詳しい知人にも話を聞いてみようと思います.

余談

本書を読んでいて,「藝術」,「アート」という概念がとても揺らぎのあるものだと感じました.上の文章でもこれらの用語を正しく用いることができてる自信が全くないです...