美術作品の価値に寄与するもの

最近美術館に足を運ぶ機会が多く、美術作品の価値というものを考えています。その中で、単に「美しい」というような価値以外にも以下のような要因が作品の価値に寄与しているのではないかと思うようになりました。

コンテクスト

西洋美術の歴史を振り返ってみると、時代によって180度異なる表現がその時々において価値あるものとみなされていることが分かります。それらは往々にして、従来の規範的な様式に対する反発として現れています。新古典主義は、多様な装飾によって象徴されるロココ美術に対して、形式的な美を重んじてギリシア、ローマの古典期を理想としたものですし、ロマン主義印象派はそうした新古典主義の規範からの逸脱から登場したものでした。

こうしてみると、美術作品の価値に寄与するものとして、時代性やコンテクストがあるのかなと思います。同時代的には評価されなくとも後の時代になって価値が見出されるものや、特定の文脈のうえに位置付けることで価値が現れてくるものがあります。この観点は、単に美的な感覚に適合するかいなかということとは異なるもので、美術館で作品を鑑賞する際に、作品の背景を知ることで見え方が変わるということもそうしたところに起因するのだろうと思います。

作品の展示形態

これはほとんど個人的な感想なのですが、「美術館」という場所に展示されていることも、作品に価値を感じる一因なのではないかと考えています。

とある小学生が描いたスケッチが、小学校の教室に飾られている場合と美術館に飾られている場合とを考えてみると、前者の場合はしっかり小学生のスケッチですが、後者の場合にはじっくり観察し作者の意図みたいなものを考察したくなります。

美術館という、静謐で、空間には作品のみがある、という場所が生み出す効果は非常に大きいのではないかと思います。

まとめ

以上のようなコンテクスト、作品が置かれる空間といったものを考えると、さまざまな展覧会が、どんな作品を集め、どのように配置するかということに趣向を凝らすことの意味が理解できる気がします。その営みには作品の背景に関する知識や、展覧会で表現したいメッセージが不可欠でしょう。今後展覧会に足を運ぶ際にはそれらのことを意識して鑑賞してみようと思います。

美術作品の価値を知るために

最近、定期的に美術館を訪れています。先月はパナソニック美術館のルオー展、今月は国立新美術館のテート美術館展と東京都美術館マティス展を訪れました。

今回の記事では、現時点で自分が、市民の創る作品、もっと言えば全ての人が創り出す作品に、有名な画家と同等の価値を見出していることについて書きたいと思います。

何だこれ...!?

というのは、美術館で作品を鑑賞しているときに、ちょくちょく抱く感想です。とりあえず、筆を乱雑に動かした形跡があったり、画面の部分部分を無作為に削り取っていたり、そこに至った背景を知らなければどうか評価すればよいのか分からない作品があります。

評価軸

こうしたときには、解説文を読んだりして作者の意図みたいなものを知るのですが、それでもなんとなく腹落ちしない感覚が残ります。それは、自分の中の評価軸として、写実的な正確性みたいなものしか存在しないからなのだろうと思います。

実際には、美術作品にはもっと多様な評価軸が存在していることは、美学の本を読んだりして分かってはいますが、それを自分の評価軸として確立することができていません。

一つの疑問

ただ、写実的な正確性、高度な技術以外の評価軸というものを考える時、どんな人の作品にも同等に価値を見出すことができるのではないかと思うのです。いわゆる"うまさ"を評価項目から外した際には、作者の"表現したいもの"や"表現のされ方"みたいなものが価値を構成する要素になってくるかと思います。

すると例えば*1、とある小学生が夏休みの1ヶ月を使って、自分が今心の底から表現したいものを、キャンバスの布地の素材から絵の具の種類、描き方まで徹底的に考えて一つの絵として作り上げれば、それはもう立派な美術作品になると考えます。

美術館以外にも、市民ギャラリーなども訪れることがありますが、市民の方々が心を込めて作り上げた作品も、美術館で観る有名な作品と同じくらい価値があると自分には思えます。

暫定の考え

上のようなことを踏まえ、有名な作品の有名たる所以はなんだろうと考える時、今のところは次のような結論に至りました。

どんな人の作品にも価値はあって、その中でも、多くの場所で時間を超え様々な文脈のもとで人の心を打った作品が有名な作品と称されるものではないか。

*1:例として挙げる形になってしまって、小学生に対して本当に申し訳ないです。

インセンティブへの着目

今回は、インセンティブに着目することを覚えたことで、人の善にほとんど信頼を置けなくなってしまった、善というものが本当に善なのか分からなくなってしまったということについて書いていこうと思います*1

インセンティブと善

自分はカントで卒論を書きましたが、カントの言っていたことで非常に印象に残っていることがあります。それは行為の背後のインセンティブを考慮して道徳的な善悪をジャッジするというものです。

例としては、自分が道を渡ろうとしているご年配の方のお手伝いをしていた際に、その近くを自分好みの人が通りかかっていたとすると、自分の手助けはかっこいい姿を見せたいという動機に基づくものである、という可能性を排除できないために必ずしも善とはいえないというようなことが挙げられます。

この考えに初めて出会った時、なるほどなと同意しましたし、今でもそれは変わっていません。

人の欲求が善の存立をあやうくする

人にはさまざまな強い欲求があります。社会生活を送る中で、この多様で強力な欲求を考慮に入れる時、一般的に善いとされる行為のほとんどが本当に善いものとしてジャッジすることが困難であることに気づきました。

社会生活の背後には、生存したいという欲求、子孫を残したいという欲求、金銭的な欲求、などさまざまなカテゴリーの欲求が存在します。そしてそのどれもが人間の行動をある程度規定してしまうほど強烈で、これらの諸欲求の可能性を排除しきって完全に善だ!というに至ることはとても難しいと思います。

ごっこ化する社会生活

上のような考えに至ると、社会生活というものが、そうした欲求に規定されているのに規定されていない顔をして展開される一種のごっこのように感じられてしまいます。会社人として過ごしている時間には、とりわけそのような印象を受けます。

考えるしかない

そんなこと一切考えずに息をするようにごっこに参画できればどれだけ楽だろうと思ったこともありますが、考えることを知ってしまい、それが正しいと信じている以上はどうしようもないのだろうと思います。自分にできるのは、上のような考えも含めて、自分の考えていることや正しいと信じていることの全てが「そうでない可能性がある」と、常に自分に対して批判の目を向け、謙虚に思考し続けることです。

*1:トートロジーめいてしまいますが、今回のテーマであるインセンティブとの関連以前に、実はそもそものところで「善」とよばれるものが本当に善なのかが分からない、というのがあります。そしてそれは、哲学の一つの主題としてすでに多くの研究者の方が考え、議論されていることだろうと思うので、いつかのタイミングで調べてみたいと考えています。

アウトプットの時間を増やす

何かを学ぶ際に、アウトプットが重要であるといいます。

nakant.hatenablog.com

実際、上の記事でも述べているように自分のここ数年を振り返ってみると、インプットが過剰でありすぎたと感じています。しかも自分は友人がほとんどおらず、一人でいる時間が多いので誰かと会話をする機会が乏しいことも関連する問題です。なので、これからは真剣にアウトプットの時間を増やさねばということで、現在進行形でアウトプットの機会を増やしています。

今回は自戒の念も兼ねて、インプット過剰状態で実感している症状、アウトプット時間を増加させることで生じると期待されるうれしいことをさっと書いておきます。

インプット過剰状態で実感している症状

  • 言葉が出なくなる: アウトプット回路が未成熟のため会話に際して具体的名称がよく飛ぶ(デジタル健忘症というやつかも?)
  • 自分の言葉で語れなくなる: 読書や動画でコンテンツをインプットしてばかりなので、自分の意見がなく、誰かの言葉を借りがちになる

こうした症状のもとでは、何かを学んでもそれが全く血肉化されておらず、自分自身がかなり頼りない存在に思えてしまいます。何らかのレファレンスがそばになければ何もできないという状態です。

アウトプット時間を向上させると

上で述べたことは解消されていくだろうと考えています。実際、現在進行形でそのような実感があります。その中で一点注意が必要だと感じたのは、インプットしたものをそのままアウトプットする、というだけでは足りないということです。結局それだけでは、自分の口から出る言葉は他人の言葉の受け売りにしかなりません。読書をするにしても、映画を観るにしても、自分の意見や気持ちといったうちから生じるアウトプットを大切にすることで、自分の言葉で語ることができるようになると考えています。

また、インプットの段階からコンテンツと対話的に自分の意見や気持ちを抽出する作業を行うと、不思議と内容が記憶に定着している実感があります。人間の脳にはそうした仕掛けが備わっているのかもしれません。

読書: ベルクソン『時間と自由』

本書ではタイトルにあるように時間と自由についてのベルクソンの考察が示されます。これまであまり触れたことがない考え方だったので、とても新鮮に読めました。

ざっくりと自分が読み取った内容をまとめると次のようになります。

まず時間は、私たちが通常空間を考えるときのような等質的に分割できるようなものではなく、常に質的に変化し、異なる様相を呈し続けるようなものだとベルクソンは言います。また、時間との関連から自由というものも、私たちが「まさに今行為しつつある時点」で考えられるべきであり、決定論のように後の時点から振り返って原因結果の必然的結合で説明するのは時間概念の本来的なあり方を歪曲していると指摘します。

ベルクソンにとって時間は科学的方法論の対象となるような等質的で量的に計測可能であるものではなく、質的で連続的に変化するものであり、まさに持続している瞬間に身を置いて考えられるべきものだということになります。

こうしたベルクソンの考える時間や、そもそものベルクソンの思考態度は新鮮で、学ぶべきところがあると思いました。

時間について

時間については、確かに言われてみれば等質的ではないと感じられる場面は日常生活の中で多いなと思いました。

たとえば、自分はランニングをよくするのですが、きつい練習のときには「早く終わってくれ」と思い、たとえ10分、20分であっても非常に長く感じられます。対して、ジョギングのような軽い練習のときには、60分であっても景色を楽しんだりする余裕があり、あっという間に過ぎてしまいます。

時間というものが人間から全く切り離して考えられるものかは分かりませんが、少なくとも人間とセットで考えられる場合には「体験される」という側面は無視できないと思いました。

思考態度について

一連の論考に触れて、ベルクソンは自らが拠って立つ道具立てに非常に自覚的であったことが伝わってきました。自らが用いる言葉にもかなり慎重であることが見て取れましたし、言葉によって表現できる範囲にも気を配っていました。また、もともと数学と物理を専攻していたところから時間概念が数学的には説明できないことに思い至ったのも、自らの思考に対する強度の高い反省が伺えます。

ベルクソンはカントの物自体/現象の考えを批判していましたが、自身の認識の限界の存在を意識する態度は共通しているのではないかと思いました。

おわりに

自身が用いる道具立ての限界を自覚することと、身の回りにある当たり前を疑おうとする姿勢は、実践することはなかなかに困難ではあるものの何かを発見するうえで大切なことなんだなと改めて思い知った1冊でした。

『二つの祖国(三)』山崎豊子

『二つの祖国』三巻を読み終えました.その中で,素朴な意味で勇敢さや正義についてもやもやしたので記事にしたいと思います.

もやもやしたのは,作中の人物のうちに正義や勇敢さの顔をした単なる身勝手をみたからです.


『二つの祖国』の一言概要: 太平洋戦争,戦後の時代を生き,アメリカと日本二つの祖国の間で正義やアイデンティティといったもので葛藤する日系2世たちの話.


正義を語る2人の登場人物

一人目は加治木の叔母です.賢治と忠の日本での育ての親で,薩摩隼人の心を重んじる人です.そんな叔母は,戦争で壮絶な経験をして帰還した忠を,捕虜になったということから,そんなの薩摩隼人でないと突き放します.

二人目は忠で,忠は戦時不遇にもアメリカ軍として戦う兄賢治とあいまみえ,賢治に足を撃たれます(賢治は相手が忠だとは思っていませんでした).そこから忠は,学生時代を過ごした日本に敵対するアメリカ軍として戦った兄を執拗に憎むようになります.

島木文彌の言

ここで島木文彌という賢治の恩人の言葉をみてみます.

「国家が戦う時,個人の意思など粟粒のようなものだ,仕方なかったことだ」(p.17)

勇敢さや正義を考える

上の島木の言葉で示されているように,個人の意思ではどうにもならない状況が存在すると思います.それは,戦争という極限状態はもちろんですが,自身に大切な家族がいる場合などもそうで,自身の主義主張を貫くことで自分のまわりの人を傷つけてしまうこともあるでしょう.

こうしたことを考えるとき,加治木の叔母->忠の場合では,忠が生きていることで救われる思いのする人がいること,忠->賢治の場合では,賢治にはアメリカに家族がいて,強制収容所の劣悪な環境に置かれていることなど,主義主張を貫くことよりもずっと優先しなければならないことが存在しています.

そんな状況で薩摩隼人だの,忠誠心だの言ってみても単なる身勝手にしか思えません.

前にオードリーさんのラジオで,若林さんが春日さんに,春日さんが春日をできるのは周りの人が非春日的なことを代わりにやってくれているからみたいな話をしていたんですが,それと似ています.

勇敢さや正義みたいなものは一見かっこよくみえますし,加治木の叔母や忠のように強烈な自信を携えてそれらを語る者もいます.ただ,それがいかなる状況でも貫徹されるに値するかを考える必要がありそうです.今回の例のように,簡単に他者を傷つけてしまうような貧弱で害悪にすらなりえるものであれば,勇敢さや正義と呼ぶに値せず単なる我儘だろうと思います.

優しさ

上の例でも感じたのですが,勇敢さや正義はしばしば「力強く」"みえる"もの,さらには「怒り」とも結びつくなという気がします.

ただやはり,個人的な感覚として,そうした他者を劣位に置くことでしか成り立たないようなものには,小物感を感じてしまいます.本当の強さをもち,正義を語るに値するのは『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャみたいな無償の優しさをもつ人物ではないかと思います.

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どこまで怒りを生じさせずに生きられるか

nakant.hatenablog.com

カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのようになりたいなと思っています.アリョーシャは作品中のたくさんの荒くれ者たちに対して優しさでもって接しています.彼は荒くれ者たちに腹を立てることや彼らを見下すことをしません.

漠然とした考え

この社会の常識からすれば,荒くれ者には罰が与えられるし,人々から白い目で見られます.悪をなした人に対して怒ることは正当なことだとみなされます.

しかし,自分は悪人に対してさえ怒りを生じさせたくないなと思うようになりました.それは怒りという感情が身体や精神に悪影響を及ぼすというプラグマティックな理由もあるのですが,目指すべき人間のあり方として,いかなる理由であれ怒りを生じさせない人間でありたいという審美的な欲求によるところが大きいです.

ただその欲求は意外にももっぱら利己的なものによるのではなく,他者への慈悲に支えられている部分もあります.

究極の悪人がこの世には存在しています.基本的にはそうした人には問答無用で罰が与えられます.その際自分が考えるのは,誰かが思いを馳せないと,彼らは誰からも見放されて生を終えることになるのではないかということです.もちろん見放されるべきなんだという見方もあるのだろうと思います.ただ,究極の悪人が誕生するに至るまでは当人にとってコントローラブルなもの以外に多数のパラメータがあるのではないかとも思います.生まれた際に与えられた属性,家庭環境,経済的豊かさ,地理的条件,そして,その後生を営む中での周囲の人間関係など.こうしたことを考えると,悪人を簡単に突き放してしまうことは自分はできないなと思うようになりました.

漠然とした考えではあるのですが,そうした悪人を含めた社会全体と,その社会における幸福度みたいなものを自然科学的にコンピュータブルなものとして考えることは非常に魅惑的です.自然科学の力は絶大ですし,そうした方法論のもとで悪人を処すことが是とされれば,それは素早く社会的善へと移行します.これが常識とうまく溶け合うことで,悪人を処すことが善であるということが,それが立脚する根拠が意識されずに人々の間に浸透していくことになるのだろうと思います.

その常識に与することは,その判断を自分も採用していることで翻って自身が悪人ではないということを保証してくれるようにも思え,より魅惑的になりえます.

自分は,こうした一般的通念の発生の理路,および,人々がそれらを内面化してく過程の中に,わずかながら自己愛や利己性を垣間見てしまうような気がします.

日常生活

学生時代アルバイトで塾講師をしていて,小学生や中学生を教えていました.自分は彼らが宿題を忘れてきても"怒る"ことができませんでした.自分よりもこの世界を生きた年月が少ない彼らを怒るのはアンフェアな気がしてしまったし,何より彼らに少なからずダメージを与えることをしたくなかったからです(あとは普通にめちゃくちゃかわいかったから笑).

しかし,彼らは成績向上のために塾に通っており(通わされており),怒りという手段がその目的により資するのであれば怒るべきだと思います.

こうしたことは日常生活を見渡せばいろいろあるでしょう.

時には怒るべき状況がある

このステートメントは非常に真っ当な感がものすごいです.そうした状況においては怒りが正当化され,"適切に"怒ることは賛美の対象にもなり得ます.

しかし,自分はそれでも怒りたくないです.長期的に見て怒られた側にメリットがあったとしても,当座の段階ではその人は"怒られ"ますし,自分は怒る側になります.ここが審美的に受け入れられないポイントです.

怒らないというのは,本当に難しいことです.アリョーシャも当然ここらへんのことは織り込み済みでしょう.でも彼はそれでもあえて困難な道を選んだ.他者への無条件的な慈悲をもって.

"誰にでも"優しい人というのは,往々にして「一見美しく聞こえるけど,実際〜だよね」とネガティブなニュアンスをもって言われますしそれが常識であるとも感じられます.でも,自分は誰にでも優しいというのはしっかり美しいことだと思いますし,あえてそこを目指していきたいです.