美術作品の価値を知るために

最近、定期的に美術館を訪れています。先月はパナソニック美術館のルオー展、今月は国立新美術館のテート美術館展と東京都美術館マティス展を訪れました。

今回の記事では、現時点で自分が、市民の創る作品、もっと言えば全ての人が創り出す作品に、有名な画家と同等の価値を見出していることについて書きたいと思います。

何だこれ...!?

というのは、美術館で作品を鑑賞しているときに、ちょくちょく抱く感想です。とりあえず、筆を乱雑に動かした形跡があったり、画面の部分部分を無作為に削り取っていたり、そこに至った背景を知らなければどうか評価すればよいのか分からない作品があります。

評価軸

こうしたときには、解説文を読んだりして作者の意図みたいなものを知るのですが、それでもなんとなく腹落ちしない感覚が残ります。それは、自分の中の評価軸として、写実的な正確性みたいなものしか存在しないからなのだろうと思います。

実際には、美術作品にはもっと多様な評価軸が存在していることは、美学の本を読んだりして分かってはいますが、それを自分の評価軸として確立することができていません。

一つの疑問

ただ、写実的な正確性、高度な技術以外の評価軸というものを考える時、どんな人の作品にも同等に価値を見出すことができるのではないかと思うのです。いわゆる"うまさ"を評価項目から外した際には、作者の"表現したいもの"や"表現のされ方"みたいなものが価値を構成する要素になってくるかと思います。

すると例えば*1、とある小学生が夏休みの1ヶ月を使って、自分が今心の底から表現したいものを、キャンバスの布地の素材から絵の具の種類、描き方まで徹底的に考えて一つの絵として作り上げれば、それはもう立派な美術作品になると考えます。

美術館以外にも、市民ギャラリーなども訪れることがありますが、市民の方々が心を込めて作り上げた作品も、美術館で観る有名な作品と同じくらい価値があると自分には思えます。

暫定の考え

上のようなことを踏まえ、有名な作品の有名たる所以はなんだろうと考える時、今のところは次のような結論に至りました。

どんな人の作品にも価値はあって、その中でも、多くの場所で時間を超え様々な文脈のもとで人の心を打った作品が有名な作品と称されるものではないか。

*1:例として挙げる形になってしまって、小学生に対して本当に申し訳ないです。