読書: ベルクソン『時間と自由』

本書ではタイトルにあるように時間と自由についてのベルクソンの考察が示されます。これまであまり触れたことがない考え方だったので、とても新鮮に読めました。

ざっくりと自分が読み取った内容をまとめると次のようになります。

まず時間は、私たちが通常空間を考えるときのような等質的に分割できるようなものではなく、常に質的に変化し、異なる様相を呈し続けるようなものだとベルクソンは言います。また、時間との関連から自由というものも、私たちが「まさに今行為しつつある時点」で考えられるべきであり、決定論のように後の時点から振り返って原因結果の必然的結合で説明するのは時間概念の本来的なあり方を歪曲していると指摘します。

ベルクソンにとって時間は科学的方法論の対象となるような等質的で量的に計測可能であるものではなく、質的で連続的に変化するものであり、まさに持続している瞬間に身を置いて考えられるべきものだということになります。

こうしたベルクソンの考える時間や、そもそものベルクソンの思考態度は新鮮で、学ぶべきところがあると思いました。

時間について

時間については、確かに言われてみれば等質的ではないと感じられる場面は日常生活の中で多いなと思いました。

たとえば、自分はランニングをよくするのですが、きつい練習のときには「早く終わってくれ」と思い、たとえ10分、20分であっても非常に長く感じられます。対して、ジョギングのような軽い練習のときには、60分であっても景色を楽しんだりする余裕があり、あっという間に過ぎてしまいます。

時間というものが人間から全く切り離して考えられるものかは分かりませんが、少なくとも人間とセットで考えられる場合には「体験される」という側面は無視できないと思いました。

思考態度について

一連の論考に触れて、ベルクソンは自らが拠って立つ道具立てに非常に自覚的であったことが伝わってきました。自らが用いる言葉にもかなり慎重であることが見て取れましたし、言葉によって表現できる範囲にも気を配っていました。また、もともと数学と物理を専攻していたところから時間概念が数学的には説明できないことに思い至ったのも、自らの思考に対する強度の高い反省が伺えます。

ベルクソンはカントの物自体/現象の考えを批判していましたが、自身の認識の限界の存在を意識する態度は共通しているのではないかと思いました。

おわりに

自身が用いる道具立ての限界を自覚することと、身の回りにある当たり前を疑おうとする姿勢は、実践することはなかなかに困難ではあるものの何かを発見するうえで大切なことなんだなと改めて思い知った1冊でした。