『二つの祖国(三)』山崎豊子

『二つの祖国』三巻を読み終えました.その中で,素朴な意味で勇敢さや正義についてもやもやしたので記事にしたいと思います.

もやもやしたのは,作中の人物のうちに正義や勇敢さの顔をした単なる身勝手をみたからです.


『二つの祖国』の一言概要: 太平洋戦争,戦後の時代を生き,アメリカと日本二つの祖国の間で正義やアイデンティティといったもので葛藤する日系2世たちの話.


正義を語る2人の登場人物

一人目は加治木の叔母です.賢治と忠の日本での育ての親で,薩摩隼人の心を重んじる人です.そんな叔母は,戦争で壮絶な経験をして帰還した忠を,捕虜になったということから,そんなの薩摩隼人でないと突き放します.

二人目は忠で,忠は戦時不遇にもアメリカ軍として戦う兄賢治とあいまみえ,賢治に足を撃たれます(賢治は相手が忠だとは思っていませんでした).そこから忠は,学生時代を過ごした日本に敵対するアメリカ軍として戦った兄を執拗に憎むようになります.

島木文彌の言

ここで島木文彌という賢治の恩人の言葉をみてみます.

「国家が戦う時,個人の意思など粟粒のようなものだ,仕方なかったことだ」(p.17)

勇敢さや正義を考える

上の島木の言葉で示されているように,個人の意思ではどうにもならない状況が存在すると思います.それは,戦争という極限状態はもちろんですが,自身に大切な家族がいる場合などもそうで,自身の主義主張を貫くことで自分のまわりの人を傷つけてしまうこともあるでしょう.

こうしたことを考えるとき,加治木の叔母->忠の場合では,忠が生きていることで救われる思いのする人がいること,忠->賢治の場合では,賢治にはアメリカに家族がいて,強制収容所の劣悪な環境に置かれていることなど,主義主張を貫くことよりもずっと優先しなければならないことが存在しています.

そんな状況で薩摩隼人だの,忠誠心だの言ってみても単なる身勝手にしか思えません.

前にオードリーさんのラジオで,若林さんが春日さんに,春日さんが春日をできるのは周りの人が非春日的なことを代わりにやってくれているからみたいな話をしていたんですが,それと似ています.

勇敢さや正義みたいなものは一見かっこよくみえますし,加治木の叔母や忠のように強烈な自信を携えてそれらを語る者もいます.ただ,それがいかなる状況でも貫徹されるに値するかを考える必要がありそうです.今回の例のように,簡単に他者を傷つけてしまうような貧弱で害悪にすらなりえるものであれば,勇敢さや正義と呼ぶに値せず単なる我儘だろうと思います.

優しさ

上の例でも感じたのですが,勇敢さや正義はしばしば「力強く」"みえる"もの,さらには「怒り」とも結びつくなという気がします.

ただやはり,個人的な感覚として,そうした他者を劣位に置くことでしか成り立たないようなものには,小物感を感じてしまいます.本当の強さをもち,正義を語るに値するのは『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャみたいな無償の優しさをもつ人物ではないかと思います.

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