どこまで怒りを生じさせずに生きられるか

nakant.hatenablog.com

カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのようになりたいなと思っています.アリョーシャは作品中のたくさんの荒くれ者たちに対して優しさでもって接しています.彼は荒くれ者たちに腹を立てることや彼らを見下すことをしません.

漠然とした考え

この社会の常識からすれば,荒くれ者には罰が与えられるし,人々から白い目で見られます.悪をなした人に対して怒ることは正当なことだとみなされます.

しかし,自分は悪人に対してさえ怒りを生じさせたくないなと思うようになりました.それは怒りという感情が身体や精神に悪影響を及ぼすというプラグマティックな理由もあるのですが,目指すべき人間のあり方として,いかなる理由であれ怒りを生じさせない人間でありたいという審美的な欲求によるところが大きいです.

ただその欲求は意外にももっぱら利己的なものによるのではなく,他者への慈悲に支えられている部分もあります.

究極の悪人がこの世には存在しています.基本的にはそうした人には問答無用で罰が与えられます.その際自分が考えるのは,誰かが思いを馳せないと,彼らは誰からも見放されて生を終えることになるのではないかということです.もちろん見放されるべきなんだという見方もあるのだろうと思います.ただ,究極の悪人が誕生するに至るまでは当人にとってコントローラブルなもの以外に多数のパラメータがあるのではないかとも思います.生まれた際に与えられた属性,家庭環境,経済的豊かさ,地理的条件,そして,その後生を営む中での周囲の人間関係など.こうしたことを考えると,悪人を簡単に突き放してしまうことは自分はできないなと思うようになりました.

漠然とした考えではあるのですが,そうした悪人を含めた社会全体と,その社会における幸福度みたいなものを自然科学的にコンピュータブルなものとして考えることは非常に魅惑的です.自然科学の力は絶大ですし,そうした方法論のもとで悪人を処すことが是とされれば,それは素早く社会的善へと移行します.これが常識とうまく溶け合うことで,悪人を処すことが善であるということが,それが立脚する根拠が意識されずに人々の間に浸透していくことになるのだろうと思います.

その常識に与することは,その判断を自分も採用していることで翻って自身が悪人ではないということを保証してくれるようにも思え,より魅惑的になりえます.

自分は,こうした一般的通念の発生の理路,および,人々がそれらを内面化してく過程の中に,わずかながら自己愛や利己性を垣間見てしまうような気がします.

日常生活

学生時代アルバイトで塾講師をしていて,小学生や中学生を教えていました.自分は彼らが宿題を忘れてきても"怒る"ことができませんでした.自分よりもこの世界を生きた年月が少ない彼らを怒るのはアンフェアな気がしてしまったし,何より彼らに少なからずダメージを与えることをしたくなかったからです(あとは普通にめちゃくちゃかわいかったから笑).

しかし,彼らは成績向上のために塾に通っており(通わされており),怒りという手段がその目的により資するのであれば怒るべきだと思います.

こうしたことは日常生活を見渡せばいろいろあるでしょう.

時には怒るべき状況がある

このステートメントは非常に真っ当な感がものすごいです.そうした状況においては怒りが正当化され,"適切に"怒ることは賛美の対象にもなり得ます.

しかし,自分はそれでも怒りたくないです.長期的に見て怒られた側にメリットがあったとしても,当座の段階ではその人は"怒られ"ますし,自分は怒る側になります.ここが審美的に受け入れられないポイントです.

怒らないというのは,本当に難しいことです.アリョーシャも当然ここらへんのことは織り込み済みでしょう.でも彼はそれでもあえて困難な道を選んだ.他者への無条件的な慈悲をもって.

"誰にでも"優しい人というのは,往々にして「一見美しく聞こえるけど,実際〜だよね」とネガティブなニュアンスをもって言われますしそれが常識であるとも感じられます.でも,自分は誰にでも優しいというのはしっかり美しいことだと思いますし,あえてそこを目指していきたいです.