インセンティブへの着目
今回は、インセンティブに着目することを覚えたことで、人の善にほとんど信頼を置けなくなってしまった、善というものが本当に善なのか分からなくなってしまったということについて書いていこうと思います*1。
インセンティブと善
自分はカントで卒論を書きましたが、カントの言っていたことで非常に印象に残っていることがあります。それは行為の背後のインセンティブを考慮して道徳的な善悪をジャッジするというものです。
例としては、自分が道を渡ろうとしているご年配の方のお手伝いをしていた際に、その近くを自分好みの人が通りかかっていたとすると、自分の手助けはかっこいい姿を見せたいという動機に基づくものである、という可能性を排除できないために必ずしも善とはいえないというようなことが挙げられます。
この考えに初めて出会った時、なるほどなと同意しましたし、今でもそれは変わっていません。
人の欲求が善の存立をあやうくする
人にはさまざまな強い欲求があります。社会生活を送る中で、この多様で強力な欲求を考慮に入れる時、一般的に善いとされる行為のほとんどが本当に善いものとしてジャッジすることが困難であることに気づきました。
社会生活の背後には、生存したいという欲求、子孫を残したいという欲求、金銭的な欲求、などさまざまなカテゴリーの欲求が存在します。そしてそのどれもが人間の行動をある程度規定してしまうほど強烈で、これらの諸欲求の可能性を排除しきって完全に善だ!というに至ることはとても難しいと思います。
ごっこ化する社会生活
上のような考えに至ると、社会生活というものが、そうした欲求に規定されているのに規定されていない顔をして展開される一種のごっこのように感じられてしまいます。会社人として過ごしている時間には、とりわけそのような印象を受けます。
考えるしかない
そんなこと一切考えずに息をするようにごっこに参画できればどれだけ楽だろうと思ったこともありますが、考えることを知ってしまい、それが正しいと信じている以上はどうしようもないのだろうと思います。自分にできるのは、上のような考えも含めて、自分の考えていることや正しいと信じていることの全てが「そうでない可能性がある」と、常に自分に対して批判の目を向け、謙虚に思考し続けることです。