読書:『ラカンと哲学者たち』

特に構成を考えず,感想を思いつくまま記していきたいと思います.

感想

精神分析に興味をもち手にとった1冊です.

フロイトラカンについては大学時代の講義で少し触れたことがありますが,そのときには精神分析の独特で難解な用語で挫折してしまいました.それでも,無意識という領域に関してどんな思索がなされてきたのかは知っておきたく,精神分析を少しずつ勉強しようと思いました.

実はまだ読み切ってはいないのですが,自分なりに考えさせられたことがあるのでメモ代わりに記事にしておこうと思います.

本書を読んでまず「おっ」となったのはデカルトの有名な一説が「私」の存在をサポートしきれていないのでは,という話です.その内実を自分の言葉でまとめることは難しいのですが,「私」というのが,言葉の次元と発話主体の次元とで分裂してしまっていて,「我思う〜」と言葉にされた時点でサポートされるべき「私」が消失しているということ(だと自分は理解しました)です.

さらに読み進めていくと本格的に精神分析の話になっていき,無意識に対して精神分析がいかに向き合ってきたかが臨場感をもって説明されます.

これまで自分は意識や「私」といったものを当たり前のものとして,無意識についてはかなり軽視してしまっていました.ところが,本書を読むと,無意識は決して軽視されるべきではなく,むしろ主体のあり様を決定しさえする可能性が示唆され,非常に驚きました.

そのあたりから,自分の中で考え方に少し変化が起き出しました.それは,自分の中での「私」の認識が確実なものではなくなり始めたということです.これは何かオカルト的な話というわけではなく,単に,「無意識」という意識できない部分が自分の中で存在しているとすれば,当然,もっぱら「意識」によって把握されてる自己認識も十全なものではないよね,という至極ナチュラルな帰結です.

最初は無意識によって決定づけられてるのって,なんかこわいなーと思っていたんですが,勇気をもってその可能性を認めると意外にも"生きる強さ"みたいなものを得られた気がします.上で述べた自己認識のゆらぎは,「私」との距離をもたらしてくれるものでした.自分は考えすぎてしまう性格で,過去にやらかしてしまったことなどを定期的に思い出しては頭を抱えるみたいなことをしていたんですが,そうした過去の自分をほとんど他者くらいの距離感で,なんなら現在の自分さえも客観的に眺めることができるようになりました.

高校生の頃に平野啓一郎さんの『私とは何か』を読んで,"人ごとに違う自分"に悩んでいたのを救われたのと似たような経験ができました.「本を読む」という(良い意味で)それだけの行為でとんでもない生きやすさを得られることがあるっていうのは読書すごいなと感じるところです.

これから

まずは本書を読み切って,そのあとは関連本や実際にラカンフロイトの本を読んでみようと思います.